将棋の国技化

米長邦雄の家 まじめな私

将棋を義務教育に2(2012.4.29)

 将棋を義務教育へ。どのような手順にすべきか考え込んでいるところです。
理論武装
 これは天からの贈り物です。武道が義務教育へ導入されたことが大きい。日本の伝統文化、精神を武術によって鍛錬するという。
将棋は最もその精神を採り入れたもののはず。先ずはここをきちんとしておきたい。
○同調者
 やっぱり志を同じくする者が一人でも多く応援していただかないと、事はうまく運びません。
文部科学省
 日本一堅い役所です。しかし話が分かる人もいる。この人達と会って、どんな作文をつくるかです。会って、というのは国会議員も含めた場所でのレクチャーということです。
○国会議員
 やっぱりこの人たちが決め手です。5月7日に会合を持つ予定ですが、その時に凡その見当がつきます。
○執念
 私が会長になってからは、子どもファンを増やすことと、将棋の学校教育への導入のために頑張ってきました。
 しかし会長というのは大変ですね。いろんなことに巻き込まれて、本来の仕事は殆ど出来ずじまいでした。
 そこで打ち出したのが、収入を評価してもらい、分配や支出は他の人にやってもらうという方式。やっぱり会長は全体の収入増を考えなければなりません。昨年より多かった。それならそこで評価してもらい、金の分配や予算には時間を取られないようにしてもらうのです。
 学校教育への将棋の導入というよりも「将棋を国技にする」のが私の夢なのです。執念でもある。
 みなさんの応援を宜しくお願い申し上げます。

※赤字化は引用者

『学校教育への将棋の導入というよりも「将棋を国技にする」のが私の夢なのです。執念でもある。』
この文章は義務教育化は国技化のための材料に過ぎないと読めてしまうので「え?」となってしまいましたが、国技化イコール義務教育化ということだと思うので問題はないですかね。
国技化を目指すことについては、条件が特にあるわけでもないようですし、どのような形で国技化がなされるのか見当もつきませんが、自分は反対する理由もないので積極的ではないですが応援をしたいと思います。
ただ今後将棋文化が衰退し、国技だからということで国によって保護や保存されるような対象にはなってほしくはないですね。現状新聞社との契約金が下がり、将棋界は苦しい状況にあるためそうなってしまいそうな感じはします。庶民のゲームでもありますし、国の関与は最低限でプロ組織が興行として存続できるように将棋ファンが増えればいいのですが、そこがなかなか難しそうな気もします。
よってまず義務教育化、必修化というアイデアが会長から出てくると思うのですが、これはどうにも自分の中では説得力がありません。無理やり強制している感があり、どうにも乱暴な感じがします。将棋=良きことが自明かどうかわかりませんし。
自発的に関心を持ってもらったほうが良いと思うので、各学校のクラス全部に将棋盤を配る(セットでガイドブックも付ける)、などの運動をしたほうが良いと思います。もう既にそういう活動はやっているかも知れませんが、身近なところに自然に将棋がある環境というのが望ましいかなと自分は思います。
まあこういう国技化とか義務教育化とかは正解を誰も持っていないので、ゴリ押ししたもん勝ちみたいなところはありそうです。すごい評価を何十年後に会長が受けている可能性はあるなあ。

どうでもいいのですが国技化に成功した場合、例えばハッシーや佐藤紳哉六段が面白いことをしてしまうと文科省から注意を受けてしまったりするんでしょうか。下手に国技を背負うことによって将棋界がつまらなくなるなんてことにならなければいいなとは思います。

萩原朔太郎 「日本国技の洋風化について」

本題とはあまり関係ありませんが関連として興味深い文章を見つけたのでご紹介。
有名なのかも知れませんが自分はついさっき知りました。
詩人の萩原朔太郎の国技に関するエッセイです。読み間違いがあるかも知れませんが感想を。

萩原朔太郎

日本国技の洋風化について 『河北新報』 昭和十五年十月九、十、十一日

すべての態の根本となるものは、賓に現代の資本的商業主義に源泉してゐる。角力も将棋も、すぺての物が
これによつて筈悪され、日本的なる国粋精神を蝕ばまれてゐる。今日なほ剣術や柔術や弓術やだけが、この鮎
での蝕著を兎がれてるのは、これ等の競技そのものが未だ大衆的な興行償値を持たない為である。一旦それが
市場的な営利性を示した場合、今日のジャーナリズムや興行者やは、抜目なく好餌に食ひつき、たちまちそれ
を商業主義の犠牲にすることは明らかである。かくて日本的なる武蜃や競技は、次第にその民族的な囲粋構紳
を喪失し、ユダヤ的、紅毛的なスポーツに攣化してしまふ。それは畢なる遊戯やゲームの欧化ではない。日本
精神そのものの憂ふべき失落である。我等の政府官局者は、今の民衆の無邪気な娯楽に関して、不必要に煩濱
な干渉をする代りに、かうした根本の第一義的な事項に関し、より高次な哲学的な立場からして厳重な精神的
検閲を為すべきだらう。

萩原朔太郎にとって国技には情や粋を重んじる精神性がなければならず、国技と呼ぶべき相撲や将棋界が興行のために西欧的なスポーツと化していくことを批判しています。現代では実力制名人の制度を導入することによって将棋は近代化し、競技化は喜ばしいことだとするのが一般的な評価だと思いますが、それを当時の日本主義者*1である萩原朔太郎が西欧化であるという理由で批判しているのが面白いと思います。
八百長は残酷さの反対にある日本的な優しさの表れだという主張は、どんな勝負でも決して手を抜かないという米長理論とは相反する考え方ですし、名人や横綱の概念は西欧で言う選手権者(チャンピオン)とは違う、形而上的な神聖さがその立場に込められているのでたらい回しにするべきではない、といった考え方は現代人の思考からは生まれない新鮮さを感じます。現在でも将棋に詳しくない人が「羽生名人」と呼んでしまうのをたまに見かけますが、これは無知だけではなく自然に羽生に神聖さを感じるが故の名人という呼称かもしれません。
実際名人が一代限りの世襲制のままだったら将棋はかなり古臭いものに思われて早々と廃れていたように思うので、この競技化は間違いではなかったと自分は思いますが、人や時代によって国技に求める精神性はかなり違うのだなという発見がこの文章を読んでありました。国技化により競技に与えられる精神性は普遍的なものとは限らず、その時代の状況やイデオロギーにより変わっていくものかも知れません・・・まあなんだかよくわかりませんが、国技にふさわしい日本的というものが何なのか、伝統の何を残し何を伝えるかということはよく考える必要がありそうです。

*1:萩原朔太郎 - Wikipedia参照。自分は詳しくありません。